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書籍「情然の哲学」紹介



著者 勝本義道

【目次から】

序 章 存在の理由 ― 究極的難問への挑戦

第1章 自分とは何か ― 自分が自分であることの不思議さ

第2章 原初のゆらぎ ― 「あってあるもの」とは

第3章 存在の構造 ― 「ゆらぎ」から「流れ」へ

第4章 愛と自由と生命と理想 ― 偶然と必然の躍動する世界

第5章 概念から物質そして人間へ ― 三次にわたるビッグバン

第6章 人生の目的 ― 「私」が存在する理由

第7章 世界平和に向けて ― いま私たちにできること

第8章 日本の使命と役割 ― 「和」と「道」が織り成す日本文化

終 章 これからの百年・千年紀に向けて

 

【本文より】

再会する知の領域

たとえば「命とは何か」「どの時点で死と判断するか」という問題に対しても、医学、生物学、法学、哲学、神学など、それぞれの立場によって微妙にあるいは大きく答えが違ってくる。扱う分野や視点が異なるため統一見解を出そうとしてもなかなか議論が噛み合わない。

しかし臓器移植や尊厳死、自殺予防、死刑の是非など、いまや他の分野からの視点を無視しては、具体的な問題を解決できない段階に来ているのだ。

それぞれの道を究めるために別れ別れに進んできた諸分野が、「存在の根源」を巡って今まさに再会を果たそうとする動きが見られる。それは別々のルートから上り始めた登山者たちが、頂上が近づくにつれてお互いに顔を合わせるようになるのと似ている。

本来「自分とは何か」という問いで問われている「自分」とは、心も体も包括した総合的な存在であった。しかし、時代を経るにしたがって、より詳細かつ正確に解明しようとするなかで、哲学や神学さらには科学など、真理に至るアプローチが細分化されてきた。

それに合わせて「自分」もさまざまなパーツに解体、分解され調べられてきた。その決定的な発端となったのはデカルトにおいてであろう。ようするに、心と体を切り離して捉える二元論である。

デカルトにおいては、自分の中には「カラダなる自分」と「ココロなる自分」がいて、それぞれ存在原理が違うため、別々に取り扱う必要があるとされた。それ以降カラダのほうは文字通り「モノ」や「キカイ」として扱われ、医学を初め、その延長である物質を研究する自然科学の発展を飛躍的に加速させた。

中世を支配していた宗教権力の圧力から解放された科学者たちは、物質世界を自由に切り刻み分析し研究することができるようになった。まさにデカルトが「近代哲学の父」と称される所以である。

しかしその反面、カラダを分解、解体するだけにとどまらず、もともと不可分の関係にあったココロとカラダまでをも分裂させてしまうという深刻な後遺症も残された。

いま現代科学と哲学や宗教の接近を見ると、デカルトによって別れ別れになった心と体が、約四〇〇年の時を経て再会し、本来のつながりを取り戻そうとしているかのような印象さえ感じられる。

自然科学は、その方法として心の領域をあえて無視することで発展してきたけれど、いまその自然科学の最も純粋な形を継承する物理学が、物質と意識作用やその関係性を考慮せずには成り立たなくなってきているのだ。

そうした事実は、思想全体の限界や行き詰まりを示唆しているように感じられるかもしれないが、それは全く逆である。科学も哲学も、ただやみくもにあちらこちらを彷徨ってきたわけではなく、いつの時代もまっすぐに「頂上」を目指してそれぞれの道を究めようとしてきたということにかわりはない。

そして、いままさにそのゴールを間近に見ようとしているのだから、むしろ希望と可能性の時代であると考えられる。

その「頂上」は、お互いがお互いに対して開かれている場であり、各分野が一つの課題を調和的に研究することで、より専門的に深まっていくような、きわめて刺激的な知的空間であるに違いない。

 

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